仏教大学講座(第二期)の講義から
聖教新聞 昭和49年11月28日(木曜日)掲載
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「ベルクソンの生命論」
南山大学教授 澤瀉久敬(おもだかひさゆき)氏

 ●● 存在を内より直観

  ● 新たな人類つくる宗教的巨人のエモーション


「ベルクソンの生命論」について考える場合には、二つの問題がある。一つは何を生命というか。もう一つは、その生命を認識する方法はどうであるかということである。

 生命を扱うにしても、それを認識する能力が、人間になければならないので、まず、認識の問題から入ろうと思う。そこには、二つの認識方法がある。

 一つは外から見る方法。もう一つは内に入って見る方法である。外から見る場合には、立場と尺度を通して、対象を外から調べる。ところが、内から見る場合には、直接そのものと一つになるので、立場も尺度もいらない。

 結局、外から見る立場は相対的な認識であり、内から見る場合は絶対的な認識である。つまり、外から見ては、そのもの自体を知ることはできない。実在を知るためには、どうしても内から見ることが必要になる。

 科学は、外から見る立場であるが、それは外界に働きかけるためにある。自然法則を知ることによって、自然を支配する。

 それに対し哲学は、支配も服従もしない。存在と共感して一つになろうとする。それは一種のパトス――情的なものである。それをするのは、直観といわれるものである。その直観とは、単なる思いつきではなく“ものを内から見る”という意味の“直観”である。

 ところでカントは、人間の認識は、時間と空間と悟性形式の概念をもって見ているので、実在を把握することはできないという。

 カントが言う時間は、数学であるが、ベルクソンのいう時間とは数で表せない、別のものである。時間をとらえるものがあれば、存在自体はとらえられる、と言っているわけである。

 ところが、全てのものが内から見えるわけではない。同時に、内からでないと見ることができないものがある。それが意識である。では“意識”とは何か――。意識とは、量ではなく質である。瞬間瞬間に、それ自体に独自の性質をもっているものである。しかもそれは、瞬間瞬間に質的に変化し、流れるものである.その質的な変化は、そこに切れ目を入れること、ができない。これが、もう一つ大事な点ではないかと思う。

 そこに、時間と空間の明確な違いがある。空間は同質的な延長であり、数が成り立つためには必要である。しかし、時間には空間がない。それを、時間があると思わせるのは、私たちの意識が覚えていて、それを知ることができるからである。そうなると、本当の時間とは意識であると言わねばならない。

 過去の意識に新しい意識が加わっていく。過去を積んでいくからこそ、時間は刻々ふくらんでいく。一瞬前と現在の瞬間とでは、すでに内容が違っている。時間が流れるとは、刻々に新たなものを見いだし、自己を転換することである。新しいものを生むことによって結局、時間とは自由である。

 では“自由”とは何か――。人間が本当の自己になることである。しかしながら、人間が真の自己になることはまれである。したがって、自由はまれである、といえる。

 ここで自我には、内なる自我と外なる自我がある。外なる自我とは、私たちが社会生活をしているときの自我である。その場合は言葉によって、お互いの意思を通じ合っている。しかし、そこには本当の自我はない。時間の世界ではなしに、空間の世界である。ところが、そのようなこわばった自我の中に、もう一つ本当の自我がある。

 したがって、私たちが本当の自我を知ろうとするなら、外的な自我を一往放棄して自己自身の中へ入っていかなければならない。それが哲学的認識である。

 それでは、生命とはどういうものか――。これが生命論を考える第一の問題でもあるが、まず、私たちの身体や生物を通して、生命というものを考える。

 ではまず、身体とはどういうものかを考えた場合に、二つの立場がある。一つは、有機体も一般の機械と同じであるという、生物機械論。もう一つは、有機体には無機体にない、独自の原理があるという、生気論である。

 ところがよく考えると、この二つの立場は共に間違っている。というのは、両者とも、ただ生物体だけを対象としている。生命を知るためには、生物主体と外界との関係がどうなっているかを見なければならないのであって、外界を無視してそのものだけを見る見方は、根本的に間違っているといえる。

 ごく常識的に考えても、生物体は他の物質とは異なる、特異な存在である。まず“順応”ということがあげられよう。確かに無生物でも、例えば水はコップに入ればその形に順応すると思うかもしれない。

 しかし、生物体の順応作用は、そういうものではない。外界に対応して、反作用することもあれば、静止する場合もある。つまり、生物体はあくまで行動の中心であり、能動性をもっている。その能動性の発達が、そのまま生物の発達でもあるわけである。

 ではどうして、生物体は能動性をもつことができるのか。それは、身体は本来、物質と精神、意識の結合した存在であることが考えられる。となると、物質としての身体と、意識としての精神は、どう結びついているかという、心身結合の問題がここに出てくる。

 医学では一般に脳の局所に意識が入っていると考える。しかしベルクソン的な考え方でいくと、そうではない。むろん、意識と身体との間に関係がないというのではない。身体には過去がある。その過去の記憶によって、現在の行動にさまざまな変化を起こすわけである。では意識が脳の中にないとしたら、どこにあるのか――。

 しかし、意識は常に時間的なものであるから“どこにあるか”という問い自体、本来は良くない。別な説明をすれば、意識は現在に有効であるから顕在するわけで、無用であれば意識は生まれてこない。意識は、過去の記憶を利用しつつ、更に未来に新しいものを考え出していく。そこに本当の精神の自由があるわけでもある。

 したがって、生命は分類学的な空間の立場でなく、時間の立場から見なければならない。そのことをベルクソンは「生命とは、自然の必然性の中に、できる限りの非決定性を入れようとするものである」と言った。

 ここで“意識”とは本来、物質でも精神でもない。精神の方向と物質の方向に向かい、だんだんに進化してきた。私たち人間は、哲学的直観をもって、その生命とは何かをとらえようよするわけだが、それは、自らの生命を“生きる”ことによって、生命とは何かを知るということである。

 ●人間の特色は道徳と宗教に

 それはそれとして、もう一つ大事なことは、人間とは何かということである。それを特色づけるものは何であるかというと、それは道徳と宗教である。その道徳と宗教を、ベルクソンは社会の立場から理解しようとした。

 社会には“閉じた社会”と“開いた社会”がある。また社会には、家族があり、国家があり、人類がある。家族と国家とは、閉じた社会である。それは内ではまとまっているとともに、外に対しては戦う。ところが人類は外界に対して戦うことはない。

 人類は、国家的立場と違って、それはエラン・ビタール(生の躍動)――“愛”なのである。

 それによって“閉じた魂”と“開いた魂”が出てくる。閉じた魂とは、上から強制されて動かされる魂である。それに対して、開いた魂とは、ある一人の偉大な偉人がいて、その人にひきつけられる。

 つまり、閉した社会の閉じた道徳というのは、圧力による義務と責任である。それに対して、開いた社会の優れた道徳というのは、ある一人の偉人がいて、その人にひきつけられて、圧力ではなしに引力、魅力によって、そこに人々が集まっていく。そこに出来あがるのが、開いた道徳である。

 それでは宗教はどうかというと、そこには“静的宗教”と“動的宗教”が考えられる。静的な宗教は結局“生”というものが生まれることよって、死が怖くなる。それで死をなんとかして終わらせようと思って、神々をつくったりする。結局それは、生命が自己を保存するためにある。

 しかし、動的宗教――真の宗教というのはそうではない。まず偉大な宗教的な巨人がいる。その宗教的な巨人というのは、生以下ではなしに生以上のもの――それをベルクソンは“エモーション(感情、情緒)”という――そのエモーションによって動いている。

 それはむしろ理性の一線を準えているので、神秘主義であるが、神秘主義においては、二つの誤解を解かなくてはならない。

 一つは、何か幻覚的な世界のものを考えがちだが、そうではない。かといって恍惚(こうこつ)の世界を創造し、それを神秘主義だと思っているが、それも間違いである。

 ベルクソンの言う、真の神秘主義とは、行動そのものの世界である。そしてそれは、自らつくることによって、新しいものが形成されていくという世界である。

 それを、宗教的な巨人が、エモーションを通じて引き出す。それはもはや、人類という歴史の中で、一人の巨人が一つの新しい人類をつくる。その人が出ることによって、人類の姿そのものが変わっていく――。それがおそらく、本当の個性というものではないかと思う。

、では、そのような宗教的な巨人は、何をつくろうとしているのか――。結局それは“愛”という精神かもしれない。ベルクソンは「神とは愛であり、愛そのものである」という。

 ではその愛のなかで、最も尊いのは何かというと、結局、自分が正しいことをする、というのでは、なしに、他人に生きる力を与える、他人の行動に力を与えるもの――それが本当の愛であると、このようにベルクソンはいっている。

 それでは、その愛を説く人はいったい何をしようとしているのか――「結局、その人こそ本当に、存在とは何であるかを知った人である。単に道徳的な原理の問題ではなしに、その宗教とは哲学である。存在そのものにふれることである。ただ、その存在にふれるといっても、存在というものがあって、ふれるといえば、これは観念論である。プラトン的な観念論では、イデアというものが主になっている。

 しかし、ベルクソンの言うのはそうではない。その存在そのものが、刻々に自己を形成しているという。そういう動的な意識をもつことによって、人類の潜在を、とらえることになる。

 つまり、自ら働くことによって、新しい存在をつくる――それが生命というものであると、こう考えるわけである。
      (文責編集部)

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澤瀉久敬『医学概論』全3冊 誠信書房

第1部「科学について」昭和49年6月25日 第9刷 定価800円
第2部「生命について」昭和50年7月25日 第9刷 定価2000円
第3部「医学について」昭和50年7月25日 第10刷 定価2000円

【目次】

●医学概論 第1部「科学について」

復刊の辞
新版の序
第二版の序
序論 「医学概論」の進む道
第一部 科学について
一 ロゴスとパトス
二 実証科学
三 実験
四 フィジックとメタフィジック
五 延長の自然学
六 古典的物理学
七 現代の物質観
八 実証と直観

<解説>医学の基礎は自然科学にあり、医学概論の窮極の目的は、より立派な医学の建設である。第一部は、その基礎にある自然科学の根底を徹底的に見極め、実用的医学の弊(へい)に反省をうながした医学概論の序章。

●医学概論 第2部「生命について」
新版の序

第二部 生命について
一 第三の世界(身体)
二 二元的一元性(生気論と機械論)
三 体(有機体)
四 気(Activuty)
五 力(気と体の二元的一元性)
六 行動(生物と環境)
七 Individualisation(生命の起源と進化)
八 Temporalisation(生物と無生物)
九 行為(意識)
十 所有(社会)
十一 ありがたさ(孤我)
十二 有(いのち)

<解説>医学概論の第二の仕事は生命の問題である。第二部では、人間が創造してゆく世界における医学の本質と使命を考究、医学と人間存在の関係を解明する。ユニークな生命の哲学を展開している。

●医学概論 第3部「医学について」
復刊の辞
まえおき
序論 医学論の課題
第一章 健康

第二章 健康法

第三章 病気
第一節 病気の分類
第二節 病理論史概観
第三節 セリエのストレス説
第四節 ソヴェトのネルヴィズム
第五節 漢方医学の本質
第六節 病気の現象学

第四章 病気の治療
第一節 診察と診断
第二節 治療
T 治療と治癒
U 病気の治療
V 病人の治療
第三節 医療と社会

第五章 医道

<解説>「医学とは何か」を追求した第三部では、疾病、診断、治療等の現実的問題を論考、現代医学の本質を明らかにする。医学を人間に密着させた名著の完結。医家はもちろん、哲学学徒、一般知識人必読の書。

●著者紹介
澤瀉久敬おもだかひさゆき(1904〜1995)1929年、京都大学哲学科卒業、同大学院を経てフランス留学。1938年、京都大学文学部講師。1941年、大阪大学医学部にわが国最初の「医学概論」の講義が開講され、その講義を担当して退官まで続講。1968年、定年退官。その間、京大、東大、九州大などで講義を行う。

検索語:沢瀉久敬

(2009年 5月 19日 2時 24分 追加)
●著者の著作(一部のみ)
1.ベルグソンの科学論 學藝書房 昭和43年9月15日 初版
2.医学の哲学 誠信書房 昭和50年10月15日 第13刷
3.哲学と科学 NHKブックス 1995年2月10日 第37刷
4.個性について 第三文明社レグルス文庫(新書版)1972年5月18日 初版第1刷
5.健康を考える その他 第三文明社レグルス文庫(新書版)1976年 初版
6.「自分で考える」ということ 第三文明社レグルス文庫(新書版)1996年10月12日 初版第2刷

●付記
以下に創価学会の仏教大学講座で著者が講義した記録がある。
http://jounin.web.fc2.com/kyougaku/sankousho/kyougaku-gazou5.htm
仏教大学講座講義集〔2〕 昭和50年11月発行
ベルクソンの生命論 澤瀉久敬(聖教新聞 昭和49年11月28日掲載 当時の肩書きは、南山大学教授)
仏教大学講座講義集〔4〕 昭和51年10月発行
私の生命観 澤瀉久敬

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