〈シリーズ〉「戦争を知らない世代へT」(全56巻)
第2巻 広島編@ 広島のこころ―二十九年

〈創価学会青年部反戦出版委員会編〉定価 \900
第三文明社 昭和49年(1974年)6月23日 初版第1刷
はじめに(pp.1-3)

 本年初頭より本格的に展開されてきた私たち創価学会青年部の「平和憲法擁護運動」は、着々とその成果をあげ、全国に多大の反響を呼んでいる。各地における憲法研究会の発足、それを核とした憲法講座を中心とする憲法の意識啓蒙の活動、護憲週間の設置と各地における護憲集会の開催、生活憲章作成運動を通しての憲法の実質化運動等は、地道な護憲運動として大きな実を結びつつある。特に「靖国神社法案」「小選挙区制」の問題等を通しての抗議行動は、今までにない本格的な護憲勢力の存在を世に印象づけた、といえよう。

 一方、日本国憲法を特色づけ、世界の憲法に範たらしめている、恒久平和主義の理念を、全世界の世論にまで高めることを目的に進められている反戦出版活動は、ひときわ異彩を放つものとして注目されている。

 民衆の心の中に築かれた平和の砦こそが、真の反戦平和思想の原点である、との信念に基いたこの反戦出版活動は、去る六月二十三日の沖縄終戦の日≠記念して、すでにその第一巻沖縄編が発刊された。今ここに、八月六日の広島被爆の日を前にして、広島県反戦出版委員会の諸君の手により、この「広島のこころ―二十九年」が発刊される運びとなった。

 被爆二十九年目を迎える今日、未だにその傷跡は癒されてはいない。一方において、米ソをはじめとする核開発はとどまるところを知らない。のみならず最近のインド、フランス、中国、イギリス等の相つぐ核実験は、新たな核拡散の危険性をもたらしている。

 核拡散の拠り処となっている核の均衡≠ノよる抑止力@攪_の破綻は、多くの識者の指摘するところである。ましてや、核実験や核兵器使用に、正邪の区別などありえようはずがない。いかなる核兵器も人間にとって悪∴ネ外の何ものでもないとわれわれは主張する。

 私たちは生命尊厳の立場から一切の核兵器の使用はもとより、あらゆる国の核実験に対しても、断固たる反対の態度を表明するものである。そして、日本こそ、国際社会の中において、そのリーダーシップを取るべき資格と責務を持つものであることを強く確信する。私たち、創価学会青年部は、昨年来この趣旨にのっとり「すべての国の核兵器及び一切の戦争の絶滅を訴える署名」運動を展開し、すでに署名数は五百万名になんなんとしている。今年中には、これを一千万名にまで拡大し、国連を通じて、全世界に、核兵器と戦争の絶滅を訴えていく計画もしている。

 このような折、広島の有志諸君の手により本書が世に出ることは、まことに時を得たものであり、万金の重みを持つものといえよう。ここに収録された民衆の声こそ、まさに核兵器撤廃と平和への生命の叫び≠ナある。この声を素直に受けとめるならば、誰が再び核兵器を使用する愚に出ることができようか。本書が、人類の核信仰に対する警鐘になることを心より願う次第である。

 最後に本書の編集の労にたずさわった広島の同志諸君の平和へのたゆまぬ情熱に心から敬意を表するとともに、第一巻から引き続き、本書の上梓に、多大の尽力を倍しまなかった、松島規、外山武成両氏をはじめとする中央の反戦出版委員会のメンバー及び第三文明社の方々に心から感謝の意を表するものである。

 昭和四十九年七月十一日

創価学会青年部
平和憲法擁護委員会委員長 桐ケ谷 章

目次

(入力者注 執筆者の氏名を省略しました)

発刊に寄せて

●第1章 あの日私は
思い出すだけでも涙がほおを
奇怪な私の感情のなかに戦争をみる
「絶対死ぬるものか」
見るも無残な光景
奇跡の生還
十四年間の闘病生活に耐えて
忘れてしまいたい
不眠不休で救助活動を
核兵器使用を憎まずにいられない
無言の列が長々と続く
数年後に身体に障害が
ガラスの破片が体内に
死んだ子を主人と二人で抱いてやる
やり場のない腹立たしさ
医師もなく薬もなく
母の死に慟哭す
涙涸れ、ただ范然と

●第2草 生き抜いて
宿命の焔(ほのお)
世界に訴えていく青任
原爆乙女としてアメリカへ
胸しめつけられるいまわしい想い出
甲状腺のガンと戦う現在
引き裂かれた青春
ヒロシマの叫びを語り継ぎたい
父の遺体を焼き直す
五十人の級友がたった四人に
もし奇型児が生まれたら
「なんだ、ビカドンか」
生きるために土方人夫も
戦火のやむ時はないのか
痛ましくて泣いた
子供心に死を考える
広島に転勤になった四日目に
毎日、毎日、指を曲げる
三十分遅かったならば
私は負けない
きのこ雲の下で
夢遊病者のように
真夏でも長袖の服を
なぜ広島に
自らの手で妻子三人を火葬
レンガ壁の下敷きに
娘ざかりに死ぬことばかり考えて
夢にうなされる闘病生活
二、三軒先に吹き飛んだ体
今も見つからない父の遺骨
屍の上にたつヒロシマ


●第3章 炎の中へ
変色して体に残る傷跡
崩れたわが家に茫然
原因不明の病気で苦しむ
一カ月以内に全員死亡

●第4章 被爆二世の叫び
胎内被爆の宿命に抗して
生き抜くこと、それが私の平和運動
魔性と対決の戦う平和主義≠ナ
沈黙が呼ぶ不当な差別

編集後記

※写真提供 米国陸軍病理学研究所からの返還資料

編集後記(pp.241-243)

 キョウチクトウの紅色の花が、強い日差しにひときわ鮮やかに広島の街並みを彩っていた昨年の八月五日――。

 人類最初の被爆地・広島で、私たち青年部有志は、第一回広島反戦平和集会と核兵器廃絶、戦争絶滅への街頭署名運動という具体的行動を起こした。そして反戦平和集会の席上、原体験継承運動の一環として被爆体験記の発刊を決議した。

 一瞬にして二十数万の生命を焼き尽くした原爆、そしてその放射能は二十九年たった今もなお、殺人を犯す。今年四月、広島原爆病院は昭和四十八年の診療状況を発表したが、それによると死者は八十七人で、昭和三十一年開院以来最高を記録した。

 被爆者の老齢化は著しく、人為的作用等による原体験の風化とあいまって、このままではヒロシマは解決されなければならない問題を抱えたまま葬り去られてしまうのではないか。

 私たちは、生命を尊重し平和を愛する青年として、やむにやまれぬ真情の発露から起ち上がった。人類の歴史におけるヒロシマの意味を問うなかで、核兵器全廃、戦争絶滅の日まで、原体験を語り継ぎ、記録し続けなければならない、との強い決意を胸に秘めて。

 私たちメンバー有志は、じっとしていても汗の吹き出す暑い日、被爆者を訪ねては話を聞き、原稿を依頼した。またある時は寒風にかじかんだ手にフーフー息を吹きかけながら、目指す家に足を運んだこともあった。被爆した人たちが、とつとつと語る話に耳を傾けながら、あまりに悲惨なありさまに思わず息をのむようなこともたびたびだった。また、「話しとうない!」と悲痛な面持ちで、拒否されることもあったが、それだけに一層、残酷さがしのばれ、胸がうずいた。

 ともかく本年初頭には、貴重な五十数編の原稿が寄せられた。私たちは校正作業に当たりながら、しばしばあふれる涙をこらえきれなかった。原爆症に苦しみ、常に生と死が隣り合わせというぎりぎりの限界のなかで、運命をのろい、我が身をさいなむ時の流れのなかで、妙法にめぐり会い、そしてこの出あいを機に原体験を思想化し、よみがえらせ、決然と生き抜いていく感動のドラマが行間からも脈々と伝わってきた。

 われらは原爆を恐れじ=\―これがこの体験記に一貫して流れる叫びであり、テーマなのである。

 私たちは期待する。原爆の惨禍にもめげず、平和への証しとして日々を生き抜き、今後も生き抜くであろうこのたくましい人間群像は、三十万被爆者にとって少なからず勇気と希望を湧きたたせるささやかな一灯になりはしないか、と。

 ともあれ、この体験記にはいかなる平和論をもこえる真実の叫びがあり、反戦平和の原点があると信ずる。

 この叫びをどのように拡大し、連帯の叫びとして結晶させ、ヒロシマの悲しき業を転換させていく起爆剤としていくか、それが私たちの今後の最大の課題と考える。

 また、私たちはこの第一巣をバネに、第二集、第三集、第四集と、続編を、たとえ何年かかっても粘り強く発刊していく決意である。関係する方々のご協力をぜひ、お願いしたい。

 なお、最後に今回の編集にあたった柳井侯二、稗田正俊、小西啓文、中島美由紀の各メンバーに心から感謝の意を表したい。

 昭和四十九年八月二日

創価学会青年部
広島県反戦出版委員会委員長 山下義宣
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