〈シリーズ〉「戦争を知らない世代へT」(全56巻)
第1巻 沖繩編@ 打ち砕かれしうるま島

〈創価学会青年部反戦出版委員会編〉定価 \900
第三文明社 昭和49年(1974年)6月23日 初版第1刷
発刊の辞(pp.1-2)

 私たち創価学会青年部は、昭和四十九年一月二十日の第二十二回青年部総会で信仰人としての社会的信念に基づき「平和憲法擁護に関する青年部アピール」を採択し、平和憲法を守り抜く活動を積極的に展開することを決意した。

 いうまでもなく、日本国憲法の根底をなすものは「憲法三原理」と呼ばれる精神である。なかでも、前文及び第九条にうたわれた絶対平和主義の理念こそ、他に類例をみない優れた思想であることは論をまたない。私たちは、この絶対平和主義の理念の灯をたやすことなく、否、日本のみならず、これからの世界各国民の世論にまで高めようとの決意に立った。何故なら、私たちの信奉する仏法思想は、何よりも生命の尊厳という理念に貫かれており、その理念の延長こそ、地上から戦争を抹殺し、絶対平和の社会を現出することに他ならないと確信するからである。

 その実現の方途として、私たちは、反戦出版活動に取り組むことを決意した。悲惨な戦争の体験は、時とともに忘れ去られようとし、この本の副題にある「戦争を知らない世代」が増えつつある。この世代に、戦争のいまわしさを、訴えかけ、一人一人の心の中に反戦の砦を築かぬ限り、人類は、また、愚かな戦争を繰り返すであろう。

 一方では、憲法第九条の精神を骨抜きにし、自衛のための戦争は許されるとして、着々と軍備を増強している勢力がある。また、かの靖国神社を再び国営化し、新たな戦没者を祀ることを意図した法案さえもが、白昼堂々と衆議院を通過する時代である。このような勢力こそ、民衆を再び悲惨の極へと追いやる魔の勢力≠ナあることを、私たちは知っている。私たちは、この反戦出版活動を通して、地道ながら、堅固な反戦の砦を、全民衆の心の中に築き、断固として、これら魔の勢力≠フ跳梁を許さない時代を創りたい。

 こうした時、六月二十三日の沖繩終戦の日≠記念して、創価学会青年部沖繩県反戦出版委員会の手により、私たちの反戦出版第一号ともいうべき「打ち砕かれしうるま島」が発刊されることとなった。沖繩の同志の反戦へのたくましき決意と、編集に流した涙と汗に対し、心から敬意を表するものである。

 最後に、本書の上梓に、陰の努心を惜しまなかった松島規、外山武成両氏をはじめ中央の反戦出版委員会のメンバー、及び第三文明社の方々に、心から謝意を表するものである。

昭和四十九年五月二十九日

創価学会青年部
平和憲法擁護運動推進本部長 野崎 勲

目次

発刊の辞 1
(入力者注 執筆者の氏名を省略しました)

●北部
独立混成第四十四旅団
戦争、そして私は
三日三晩歩いた避難行
捨て去られた負傷兵たち
玉砕した鉄血勤皇隊
食糧の奪い合い
二か月の子を連れ避難
恐怖と絶望の避難生活
敵兵におびえる日々
避難行で赤子を拾う
栄養失調で倒れる人びと
忘れえぬ日本兵の非道
女手一つで頼る人もなく
伊平屋島での戦況
オタマジャクシまで食べて
少年の見た避難生活
幼な子の魂の見たもの
子を背負い弾雨の中を逃げる
悲しき避難民
父の形見の戦死公報
戦争に奪われた青春
山中の避難小屋

●中部
集団自決
凌辱におののく女性

●南部
沖繩戦の残像
友よ安らかに
娘二人と主人を奪われて
変わり果てたわが姿
ひめゆりの友の最期
重砲隊で死闘を続ける
みなし児となって戦場をさまよう
醜い日本軍
黒こげになった学友
砲弾で倒れ行く人びと
死んだ母親の乳を吸う赤子
墓の防空壕
毒ガスの中で生きのびる
生きのびた従軍看護婦

●島部・本土疎開
南大東島で
八重山のマラリヤ
学童疎開・対馬丸の最後
生きて≠ニいえなかった私
サイパン島を後に流浪の身

あとがき 291
沖繩戦年表 294

あとがき(pp.291-293)

 私たち、沖繩県の青年部は、昭和四十八年六月二十三日に「第一回沖繩青年部総会」を開催した。この総会の席上、創価学会青年部総体で先に採用された「生存の権利を守る青年部アピール」に基づいた反戦平和運動として、沖繩戦の体験を収録した反戦出版を刊行することが決議された。

 私たちは、有志を募り、その決議を実現すべく、行動を開始したが、昭和四十九年に入り、創価学会青年部の憲法擁護運動の一環として反戦出版活動をさらに推進することが決定し、私たちがその先峰としての栄誉を担うことになった。

 いうまでもなく、沖繩は、太平洋戦争末期に、本土防衛の盾(たて)として、米軍の猛攻をうけ、多くの庶民が、その巻き添えとなって辛酸の極をなめた悲運の島である。戦後三十年近くになる現在でも、その悲劇は有形無形の尾をひき、沖繩の庶民の生きざまのなかに、数々の陰影を落としている。

 ところが、最近、未だ終らざる戦争の爪あとを無視し、あたかも戦争は単なる過去の事実であるとして葬り去り、あまつさえ戦争そのものを美化しようとする陰険な勢力の蠢動(しゅんどう)が目立ちはじめた。このような勢力の策謀を厳しく監視し、二度と再び戦争の愚を繰り返させぬ確かな歯止めとなるものこそ、純粋な青年の胸中にもえる反戦平和の熱情であろう。

 しかし、残念ながら本土復帰にまつわるめまぐるしい変転のなかで、とくに次代を担うべき青年層の精神世界から沖繩の心≠ェ次第に消失していきつつあることも事実である。屈折した歴史のなかで、やむなく体験させられた沖繩戦によって、戦争≠アそ人類の最極の悪である、と実感した沖繩の心≠ヘ、何にも増して次代に受け継がれねばならない。

 私たちは、この反戦出版を通して沖繩の心≠ェ、県内はもちろん、全国、全世界の青年の共通体験となることを願いつつ、筆をとり、取材に走った。反戦の砦は、何処よりもまず、青年一人一人の心の中に築かれねばならないと信ずる。

 私たちは、これからも、千人の戦争体験を収録することを目標に戦いをすすめていきたいと思っている。この地道な作業によって、庶民の魂の中に眠ったままの反戦・平和の叫びを活字とし、同世代の青年をはじめとするあらゆる人々に訴えてゆくことこそ、私たちにできうる最大の戦争否定行為であることを強く確信するものである。

 表題の「打ち砕かれしうるま島」は、沖繩の青年部員が愛唱する「沖繩健児の歌」の一節からとった。なお、収録された体験の一部は、『聖教新聞』沖繩版に「戦争を知らない子供達へ」というタイトルで連載されたことをお断りし、関係者に心から謝意を表したい。また快く私達の反戦出版の趣旨に賛同し多大の協力を寄せられた四十三人の体験提供者の皆さんに満腔(まんこう)の感謝と、尊敬の意を表するものである。

 加えて、編集メンバーのまとめ役として、取材、執筆の苦労を共にし、種々のアドバイスを与えてくれた、与那覇(よなは)隆一、挑原(とうばる)正義両氏の尽力を心から讃えたい。

 最後に、取材の労をとった、反戦出版委員の与邦覇進、内原ひろみ、金城京子、幸地哲、島袋宏吉、玉寄洋美、久保梅子、金城勝、川口修、名嘉実正、畠山悦子、村上啓子、屋良節子、奥原初子、鹿田城健の各氏に衷心から感謝の意を表したいと思う。

昭和四十九年六月二十三日

創価学会青年部
沖繩県反戦出版委員会委員長 三盛洲洋

沖繩戦史年表

一九四四
8・22  疎開学童千六百人を乗せた対馬丸、大島近海で米潜水艦の魚雷攻撃をうけ沈没。
10・9  八重山飛行場工事徴用の沖縄本島民が帰途遭難、犠牲者約五百名。
10・10 米機動部隊沖縄を初の大空襲。那覇、嘉手納灰燼に帰す。
10・18 満十八歳以上の男子を兵役に編入。
10・21 沖繩県庁特別援護室設置、10・10空襲罹災者を優先する県内外移住事務を開始。
11・27 戦勝食糧増産推進沖繩本部設置さる。
12・  沖繩各地に緊急特設挺身隊が結成さる。
12・1  沖繩、非常食糧整備週間はじまる。

一九四五
1・12 島田叡大阪府内政部長、沖繩県知事に任命さる。
1・20 大本営「本土作戦計画」決定。閣議で「沖繩県防衛強化実施要綱」決定。
1〜3  第三十二軍現地第二次防衛召集、滴十七歳から四十五歳までの健全な男子ほとんどを召集。
2・7  第三十二軍参謀長の沖繩県庁来訪、六か月の住民食糧緊急確保を島田県知事に依頼。沖繩の平時地方行政から戦時行政へ切り換え。
2・10 沖繩本島内北部疎開決定。
3・6 「国民勤労動員令」公布。沖繩県満十五〜四十五歳の男女、全員現地召集。
3・23 米軍沖繩本島爆撃開始。中学校の男生徒は鉄血勤皇隊、女生徒は補助看護婦として部隊に配属。
3・25 米軍沖繩本島へ艦砲射撃開始。座間味島では手榴弾などで、三百五十余名の島民が集団自決。
3・26 米軍慶良間列島に上陸。
3・27 慶留間島で約四十名の島民が繩で首をしめて自決。
3・28 渡嘉敷島で手榴弾、カマ、鍬などで四百名余の島民が集団自決。
4・5  ニミッツ布告第一号をもって日本の行政権を停止。米海軍軍政府設置。伊江島女子挺身隊敵陣地に突入。米軍総攻撃。
5・24 那覇市米軍の支配下に入る。
6・10 米軍司令官(バックナー中将)から日本軍司令官(牛島中将)に対する降伏勧告
6・20 大本営総長および陸相、牛島軍司令官に訣別電発す。
6・22 大本営、沖繩での組織的戦闘の終了を発表。
6・23 牛島軍司令官、長参謀長、摩文仁山頂で自決。
6・24 米軍久米島上陸。
6・30 米軍沖繩南部の掃蕩戦完了。
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