作者不詳 富士見書房 ロマン
田村隆一訳 文庫版
 19世紀、イギリスの紳士ウォルターが体験した女たち。いとけない少女から
成熟した人妻、街娼から高級娼婦にいたるまで、ありとあらゆる女たちとの
情事史を「プリック」「カント」「ファック」など猥語(わいご)の数々を駆使し、
簡明率直に表現した性の一大スペクタクル。
(文庫版〔中〕カバー見返しより)
                カバー装画
 池田満寿夫
                                  戻る
(解説)
奇書『我が秘密の生涯』

                   開 高  健

 昨年の冬、たまたま伊藤整氏と話をしていて、『我が秘密の生涯』(My Secret Life)という本のことを教えられた。アメリカのグローヴ・プレス社からペイパー・バックで出版されています。“たいへんな本ですよ”と、氏は特有のか細い声で説明し、おだやかに微笑した。

 それから私は旅にでて、アラスカをふりだしに魚を釣りつつアフリカ西海岸と中東の最前線を観察しに、流れていった。そしてアテネのホテルの書店でその本を見つけ、さっそく読みにかかったところ、面白くてやめられなくなった。それまでは原民喜の短篇集とオーウェルの『鯨の腹の中で』というエッセイ集とをかわるがわる読んでいたのだったが、この本が登場してからは、そちらに専念するようになった。

 アテネ、ジュネーヴ、ローマ、ラゴス、パリ、カイロ、イェルサレム、バンコックと流れながら、ほとんど毎夜、欠かすことなく読みつづけ、 タイ国で桟橋(さんばし)から転落して右足の骨を二本砕いてからは、帰国してもずっと寝たきりだったから、また毎日読みつづけた。近年これくらい熱心に勉強した本はない。酒を飲む手をおいて辞書を繰るのだから、われながら見上げたものであった。そこでさっそく伊藤整氏に会い、感想を申上げようと思ったところ、もう逝(い)ってしまわれた。葬式もとっくに済んでしまったと教えられたのである。しばらく声を失い、本を眺めるばかりであった。

 目下この本は『えろちか』という雑誌に田村隆一氏が訳して連載中であると教えられたが、私はまだ読んでいない。ほかに誰か読んだ人物はいないものかと思っていたところ、毎日新聞の浜田琉司氏、佐伯彰一氏、丸谷才一氏が読んでいるとわかった。

 英語のある疑問をといてもらいたくて丸谷氏に電話をし、ついでにこういう本を読まなかったかとたずねてみると、言下に

  「読んだ。傑作だ」

 という。彼は声が大きいことで知られているが、それからしばらく、電話口で音吐朗々(おんとろうろう)と、いかにこの好色本が近来の傑作であるかということを説くのであった。もともとは“ユートピア”という単語の反対語として“デトピア”という英語があるものなのだろうか、ないものなのだろうかとたずねたかった電話なのだが、ウム、ウムといっているうちにこちらも好色文学論をひろげるのに熱中してしまい、たのしくなり、おかげで“デトピア”はどこかへいってしまった。

 この本は十九世紀のイギリスのある紳士のヰタ・セクスアリスである。幼年時代の乾草小屋での回想――さしあたってわが国のお医者さんごっこであろう――そのあたりからはじまって全生涯に味わった性体験の長大な記録である。記録をしたためながら、篇中でときどきつぶやかれるが、いったいこんなことを書いて何になるのだろう、焼却しようか、出版しようかと迷ったあげく、匿名(とくめい)でアムステルダムで地下出版する決意に踏みきる。これが全部で十一巻、四千二百頁に達する。

 これをグローヴ・プレス社では箱入りの二巻本に収めたらしいが、私が読んだのは全巻を縮小、ただし無削除というペイパー・バックで、それでも約七〇〇頁(ページ)もある。この七〇〇頁がほとんど毎頁といってよいくらいヤマ場、ヤマ場で、まずはそれの無限連続なのである。

 だから、“たいへんな本”なのである。はじめは面白がって読んでいたが、やがてうんざりしはじめ、ついでぐったりとなり、それをこらえこらえ読むうちに、次第に圧迫感から朦朧(もうろう)とした感嘆が生じはじめ、ついに唸(うな)りつつ最終頁(ページ)を伏せた。

 この奇書をいったいどう要約して紹介したものか。きわどい部分を任意に抽出して訳してみたところでどうしようもあるまいから、よしにしたいけれど、とどのつまりはお読みくださいと申上げるしかない。ファーブルの『昆虫記』をつらぬく不抜の精神を読者諸賢はよくごぞんじであるが、あの長大な、とめどない記録をみたす冷徹な観察力、精緻な描写、とてつもない忍耐力、または探求心、それがことごとくセックスに傾注されたと考えていただきたい。ファーブルがヘミングウェイの文体でセックスを書いたらこうなるだろうかと思われるのである。文体は簡潔、透明――そうした文体を“筋肉質”と呼ぶらしいが――冷酷も純情もあますところなく正面から描いている。しばしば柔軟な抒情(じょじょう)があって眼を洗われる思いをする部分もある。著者は当時実在したある文筆家の一人ではあるまいかと研究家に推定はされているが、あくまでも匿名(とくめい)である。

 この本が私をおどろかした点はいくつもあり、読みすすむうちにヴィクトリア朝のイギリスやヨーロッパについていかに十九世紀の大作家たちが知らなかったか、または敢(あ)えて書こうとしなかったことが莫大(ばくだい)であったかと、教えられた。そういう点も一つである。たとえば当時のロンドンには厖大(ぼうだい)な数の貧民がひしめき、その無智と貧苦のすさまじさは少女売春の場面――しょっちゅうでてくる――を読んだだけでもじつに精細、正確に描破されていて、いまさらながら考えこまされるのである。

 ビアフラの飢餓(きが)戦争を観察するべくナイジェリアをあちらこちら私はさまよい歩いたが、同国はもとイギリスの植民地であった。だから同国の知識人たちはアフリカ人を奴隷化(どれいか)することで十九世紀のイギリスの富が築かれ、いわゆる産業革命は黒人を搾取(さくしゅ)することで遂行されたのだという、あのいつもの理論をしじゅう私に話して聞かしてくれたのだったが、この本に登場する貧苦の広大さと凄惨(せいさん)さからすると、あの時代はイギリスの貧民を搾取(さくしゅ)することで、主としてその汗のうえに築かれたのではなかったかと思わずにはいられないのである。

 アフリカ人の奴隷化はたしかにあったし、これまた凄惨(せいさん)なものであったが、黒い汗は主役ではなかったのではないかと思わずにはいられないのである。決定的な主役は白い汗であったはずである。そういうことをこの本で考えぎせられもした。これはいつかその方面を研究している人に聞いてみる必要がある。

 著者の文体も私をおどろかした。さきに“ヘミングウェイ”と書いたけれど、それはある雰囲気(ふんいき)を早く察していただきたいために、いわば代名詞として使ったのである。その透明さと簡潔さはいきいきとしていてまったく新鮮であり、この百年間に全然老朽(ろうきゅう)、風化を起していないことをさとられる。イギリスであろうが、フランスであろうが、十九世紀に全般的におこなわれていた、あの唐草(からくさ)模様のような、巧緻(こうち)を凝(こ)らした、まつわりつく文体ではまったくないのである。『風景』誌でたまたま丸谷才一氏と文体について対談することがあったので、この本を引用し、その点を指摘すると、彼は大きな声で

 「そうなんだ。そこなんだ。そこなんだな。彼は天才だったのだ。二十世紀を一人で先取りしちゃったんだ」といった。

 この点の印象をまとめると、ロココ様式の家具ばかりで埋められた部屋に、ふいに一つ、北欧風の無飾の、材質の豪奢(ごうしゃ)と機能だけで設計されたモダン・デザインの椅子がおかれたかのようである。

 いったい文体というものは意識的にであるか、無意識的にであるかを問わず、伝承としての芸であり、その呼吸なのであるから、きびしくいえば孤立した独創というものはあり得ないはずである。この著者にしても簡潔と素樸(そぼく)の例をたとえばひそかにデフォーの作品に読んで擬(ぎ)するところがあったかもしれないが、十九世紀を占(し)めていたさまざまな作品の文体のかずかずを考えると、稀有(けう)といえることをやってのけたのだといいたくなってくる。『ファニー・ヒル』や『わが生と愛』は性描写について美しい比喩(ひゆ)の案出に努めているが、『我が秘密の生涯』はひたすら率直(そっちょく)をめざしてつづられているので、赤裸(せきら)ぶりにたじろがされはするものの、その迫力は貴重である。

 総じて著者は、相手が十六歳の処女であろうと、三十二歳の百戦錬磨の娼婦(しょうふ)であろうと、選ぶところなく、つねに、欠かすことなく、MARAとか、OMANKOとか、その他、無数のことばを口走ることを強要いたす。かならずそうなのである。それをいちいちそのたびごとに、まったく疲れることを知らず記録していくのである。

 そこで、たとえば空をとぶ雁(がん)も落ちそうなほどの純真無垢(むく)の少女がおびえ、ふるえあがり、憤怒(ふんぬ)し、絶望し、ついには泣きさけぶという事態となり、“けものじみている!”とののしるのであるが、すると著者は、けものはこういうことはしない、こういうことをするのは人間だけである、だからけものじみているというのは誤りである、そしてもう人間が真に欲し、求めていることであるなら、それをそういうことばで呼んではいけないと、落花のふるまいのそのさいちゅうにじゅんじゅんと説いて聞かせ、さあいいなさい、声にだしなさい、私を昂(たか)めておくれ……と、こう、なる。

 つまり読者諸賢が日夜これいそしんでおられるところが、下劣の栄養豊かさをそのままに、しかも全体として気品をそこなうことなく、描破(びょうは)されている。ふんだんに、いる。異常がどこにもない。あまりにも普遍で、ある。

 もしほんとに率直に告白を書いてみようとしたまえ。たちまちペンのしたで紙が燃えあがるだろう。と痛ましい告白を書いたのはポーだが、私はこの箴言(しんげん)の支持者である。『我が秘密の生涯』は『失われし時を求めて』を連想させるような豊沃(ほうよく)な官能と喚起力をもって書かれた告白録であるが、そして冷徹な自己凝視があるために猥本(わいほん)からはるかに遠い、一つの赤裸の心の告白となっている書物だが、やっぱりフィクションである。ある心が描かれるために文字が媒介(ばいかい)にとりあげられた場合、選択と転換がその瞬間におこなわれるのだから、厳密にはノン・フィクション≠ニいうものは存在しないはずである。『我が秘密の生涯』をつらぬく率直(そっちょく)の気迫には圧倒されるが、どこまでが事実で、どこまでが創作であるかの判定は誰にもつかない。ただ文脈の背後に波うつ気迫のリズムそのものがノン・フィクションとして読者をうつものと思われる。そして、ある事態が極度に達すると、そのこと自体がかならずユーモアを生みだすのであるが、この本も恐るべき真摯(しんし)さでつづられつつも、七百頁ことごとく性描写の冷徹をきわめた堆積(たいせき)であってみると、読者は半ばに達しないうちに疲弊(ひへい)してしまって、ある限界を突破されてしまい、やがて、レスリングの報道を読むようにして頁(ページ)を追いはじめるにいたる。全篇(ぜんぺん)ことごとくタブーにみたされているのならタブーはなくなるわけで、そのためどこからともなく奇妙なユーモアが漂(ただよ)ってきて、また、すがすがしいスポーツの物語を読むような味がでてきて、ふたたびこの本は猥本(わいほん)から遠くなるのである。

 カザノヴァは男の夢である。永井荷風はいささか不便すぎるウラミがあるが、男の夢である。『我が秘密の生涯』もそうである。著者の富と官能を本気で嫉妬(しっと)する男はまさかいるまいが、それがことごとくセックスに蕩尽(とうじん)されてしまって、思いつけるかぎりの奔放(ほんぽう)自由を演じてくれることにわれわれは新鮮な文体で書かれた古風な本能の実現、いかに酷烈(こくれつ)仮借(かしゃく)なき太古の生活にあっても夜となれば洞穴のなかで火を焚(た)いて、そのまわりに集って物語を話しあわずにはいられなかったあの衣や食とおなじくらい必須の本能、それが求めてやまない夢物語をこの本は代表してくれているのである。

 処女を犯したい一心で泣きさけぶ貧しい少女をなだめ、すかし、だまして何度拒(こば)まれてもひるむことなく迫って手ごめに及ぶ凄惨(せいさん)な光景や、一盗(いっとう)二婢(にひ)三妾(さんしょう)……の斬人(ざんじん)斬馬(ざんば)ぶりや、女と賭(か)けをして半クラウン銀貨を膣(ちつ)につめさせたところがついに八十五枚も入ってしまい、大陰唇をひらいてみたら最後の一枚がついそこに一ツ目小僧のように顔を覗(のぞ)かせていたという話や、ついで女がたちあがるとザラザラッと床へ銀貨が流出して銀の洪水になったという話や、食うや食わずの若い男を拾(ひろ)ってきて、衣・食・住をあたえてやったのち、こちらからその青年のモノを自慰(じい)してやる話や、ついでその男が環境に慣れて倣慢(ごうまん)になり、鼻につきだすと、たちまち古靴(ふるぐつ)のように捨(す)ててしまう話や、生涯に味わった女陰のかずかずを外観によって数種に類別、列挙してそれぞれの壷中(こちゅう)の味わいを記載したのち、再奮起してエクストラヴァガンツァにのりだしていく話や……それらのとめどない紳士による悪漢物語を読みたどりつつ、われわれはかずかずのヴィクトリア朝の名作が描こうとしなかった一時代、そこを蔽(おお)う冷酷、貧苦、偽善、残忍、無智、狂信のさまざまを教えられるのである。


 しばしばそこには現在のイギリスからはたった百年前のこととは思いもよらないような事態が記録されていて、かつて読みあきった大小説群の作者たちはいったい何をしていたのだろうとさえ思えてくることがある。しかし、また、あまりに思いあたることも多いので、どうしてこういう人間というものは変れば変るほどいよいよおなじなのだろうかという、共感とも嘆息(たんそく)ともつかないものをおぼえさせられたりもするのである。これでいくと、二十世紀は十九世紀よりはるかに文明開化されて、作家にとってのタブーはほとんど何も存在しないかのように見えはするが、もし一人の冷徹な好色家が自身のためにだけ生涯の秘密を記していって、そのドキュメントが百年後に公刊された場合、その時代の人びとは、二十世紀の日本の秀才、天才、鬼才、奇才たちはいったい何をしていたのだろうという述懐(じゅっかい)を洩(も)らすことになるかもしれないのである。

 セックスと反順応感覚がこれくらい安値で横行する順応時代もまた珍しいが、痛切がどこにもないから、すべてが書かれているようでありながらたいへんな漏洩(ろうえい)があるのではないかと、この本を読んでいると、思わせられるのである。

 この著者は博大な教養を抱きながら勤勉といってもよいくらいの熱度で、痛切な自己観察からあらゆる女にMARA、OMANKOと口走ることを強要し、それで高揚(こうよう)し、しかも文学であることを失っていないのであるが、つまり、ごくありきたりのことを書いているにすぎないのであるが、パルプ週刊誌の不純文学をのぞいてこれぐらい真率(しんそつ)にしかも気品を失わずにそれを遂行している純文学作家というものは、現代日本に、まず見当らないのである。つまり、やっぱり、タブーというものはしたたかに、この一例を見ても、現代にだって横行、束縛(そくばく)していると、認められるわけである。つまり、《正直は最善の策》というマキャヴェリズムを私たちの文学はまだ痛切に体感するにいたっていないのではないかと思われる。朧化(ろうか)とおなじほどに真摯(しんし)としての下劣も文学の豊沃(ほうよく)な汚土(おど)であることを、やっぱり私たちは察していながら避けているのである。これくらい小さなことで、すでにそうである。
(以上)
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